学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。

昔書いていた、『もし元楽天社員が学校の先生になったら』というブログが、サーバーの更新を忘れているうちになんと消えてしまいました。

が、過去データを漁っていたら何件かブログが残っていたので、せっかくと思い再掲してみることにしました。

現場にいたときのブログを見返すと、我ながら血が通っているというか、リアルさがこめられていて、やっぱり大切なものは現場でしか感じ取れないなぁと思います。

これは、2014/10/12 のブログ。

『学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。』

>>

このブログを書いている個人的な目的として、かつて教育現場にいなかった自分に宛てて記していくというニュアンスがあります。このテーマは一貫して持っているつもりです。

現場のことを何もわからずに,教育への疑問や問題を嘆いていた当時の自分を思い出すと色んな感情が出てきます。それくらい、教師に関わらず何かを当事者として経験するということは大きいものだと、この経験を通して感じています。

子ども時代の思い出話をする人と、日々仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。

ただ、じゃあ当事者しか教育を語れないのか? というとそういうことではない思います。理解し合うスタンスと密なコミュニケーションがあれば成り立つことがたくさんある。

ただ、その割に教師の仕事の話を聞く機会は中々なかったりするし、わかっているようでわかっていないことが多く、何を話したらいいかわからない。

学校の外にいる人はおおよそ学校の話をするとき、自分の過去をベースにして、場合によっては思い出話のように話をするように思います。でも、教師にとって学校での出来事というのは思い出話でもなんでもなく当然提供者の「仕事」として会話をしているし、もっとリアリティがあることだったりする。ここに大きなギャップがある。

そもそも子ども時代の思い出話をする人と、日々の仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。結果極端な例をあげれば「え、先生って給食食べるんですよね?いいな~」みたいな大して意味の無いよくわからない話になることも多い。

先生からしたらそんなことは世間話にもなりはしない。その瞬間何かを共有することを諦める。それだけ話題のツボにズレがあるってことだと思います。

みんなどこかで横文字のビジネススキルの方がエラいと思っている。

学校の外にいると、教師のスキルを軽視してしまう傾向があるように思う。例えば30人の子どもを列に並ばせたり、話を聞かせてノートを取らせたり、という単純な作業を一つとっても、ぱっとやれと言われて出来るものじゃない。相応相当のコツがあるし、経験を持ってカンを働かせないといけない。教師はキャリアの積み重ねが出る仕事だと、つくづく思うこともあります。

でも、そんなことは外にいるとわからない。自分が小学生の頃を思い出して廊下に並んだことが浮かんでも、そんなことの難しさを微塵も感じたことがない。並んだ側しか経験したことがなくて、並ばせる側を経験したことがない。でも、なまじその場面を自分も体験しているし、自分の幼少期の記憶であるから「あ~そんなことしてたねぇ」と、なぜかちょっと上から目線だったりする。

保育園や幼稚園の先生も、そしてお母さんの仕事もそれに該当するところがあると思う。子育てのスキルはどうにも軽視されていないか。子どもを惹き付けて絵本を読んであげたり、オシメをとりかえたり、子どもの理屈のわからないケンカの仲裁をするよりも「マーケティング」とか「ロジカルシンキング」の方がエラいと、みんな心のどこかで思っている。そういった行為は、「小さいときの自分(してもらっていた頃)」と結びついてるから、どこか簡単で幼稚に見えていたりする。「あぁ、あれね」なんてわかった気になったりする。してもらった側でしかなかったのに。「誰もがしてもらってきたこと」は「誰もが出来ること」ではない。

それがいきすぎると、相手への配慮がなくなったりする。目をつむったまま「今の教育は、もっとすべきことがある」とか言ったりする。「今の社会に必要なことはこれだぞ」とか横暴に言ったりする。自分はたくさん身の回りの面倒を見てもらってきたのにね。

と、いうことをいつも過去の自分のために考え残すようにしています。

おしまい

在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

そういうことが人生においてとても大切なんじゃないかということを、今年に入ってすごく思うようになった。

これはとても重要な気づきだなと思ったので、最近考えていることをまとめてみることにしました。

 

ほしいもの、やりたいこと。

有名になることとか、きらびやかなもの。

そういうものは人間のエゴを上手に刺激して、たくさんの注意力をそこに使わせる。

そして実際にそれを手にしたときに大きな高揚感を感じる。

それを人に話せば、賞賛や羨望が手に入る。

 

 

そしてその類の高揚感のあとには、連なって虚無感が訪れる。

日が昇ったらまた沈むように、その二つは合わさって訪れて、

そしてそれを埋めるようにまた次の高揚感を追いかける。

さて、次の目標は何にしようか・・・

 

果たしてこれは本当に自分を幸せにしているんだろうか?

 

根本的なこと、本質的なこと、原理原則。

老子の本を最近読んでいて、「無為自然」という言葉をよく考える。

 

「無為」とは、「何もしようとしないで」ということ。それはつまりぼーっと突っ立ってる。ということじゃなく、

無理やりそれをコントロールしたり、無理に合わないものを収めようとしない、ということ。

在るべきところにいて、やるべきことをやる、というのは即ち、義務や強制ではなくて、自然なところにいて、自然なことをする。ということ。

違和感のないところ。無理のないこと。

謙り(へりくだり)や自負がないところ。

 

自分にとってのそういうコトを体感的にわかって生きている人が、世の中にはいる。

そういう人の話は、とてもおもしろい。エゴの太った話や、装飾品がジャラジャラついたような話をしない。

その人のすべきことを話す態度はとっても本質的なところをつかんでいて、深いところを共有してもらっている感じがする。

その人がビジネスをやってようが、アートをやってようがスポーツをやってようが、そこには確かな共通点があって、結果その人はいわゆる成功者であることが多い。

 

そして、これからそういう人がどんどん増えていくような気がしている。

自分にとって違和感があることから離れて、本当にただ自分を生きることだけで周りにとっての幸せになってしまう。そんな場所があることに、どんどん気づいていくようになる。

そういう世界では、「為そう為そう」としていることが、逆に窮屈さを生んだり、不自然さを生むようになるだろうなという気がする。

 

在るべきところにいるために、自分の純度を大切にして生きていく。

そういう自然な人と過ごすのは、それだけでとても心地のいいことです。

 

29歳は変化のときらしい。

 

29歳は変化の時らしい。

背景や根拠はよくわからないけど、この前一緒にいた友人が言った一言がとても頭に残っていて、反芻している。

 

というのも、あきらかに今年大きく何かが変わるような気がしている。

 

何がどうかはわからないけど、確かに「ここから新しい人生を始める」ということを前提に生きている。

 

そんな29歳。

変化の時というのは

 

色々試してみてわかったことは、

 

何かが本当に大きく変わる時というのは、押し流されるようにそうなるという時と、やはり勇気が求められる時があるということ。

 

今回は明らかに後者のケースで、たくさんのことを整理していっても、最後は気持ちひとつ勇気を出さなくてはいけないというシチュエーション。

 

そしてそれは、何をするとか、どのくらい、とかそういう話ではなくて

常に、自分に正直になる、という勇気なんだと思う。

 

でも、一人でやる必要はなくて、必ず助けになってくれる人がいる。

理解してくれる人がいる。

そして俺も、誰かが大きく変わろうとしている時に、その助けになりたいと思う。

 

あと少し

 

あと少しのところまで来ている。

あと少しやりきったら、きっとそこからは別の世界。

 

どっと何かが変わるのかもしれないし、

あぁ、これはもういいや。というエンディングなのかもしれないし、

 

でもきっと俺はそこで何かを完了させて、次のステージにいくんだろう。

 

次は多分創造のゲームに。

この世界に何を創り出そうかしら。