先生と自分らしさ

 

「自分らしくやったらこんなに楽しいなんて。」

という話を、うちの先生が言っていたと聞いた。

 

たまらなく嬉しかった。

 

その先生は、1学期全然 子どもとうまいくいかず、とても苦しんでいた。

ここには書けないくらいすさんでしまっていて、子どもをとても怖がっているようすら見えた。

 

でもそんな人が今「子どもってすごい」と言っているらしい。

「こんなに自分を出せることを知れただけでも教師をやれてよかった」と言っているらしい。

 

 

1学期のその人の授業は、なんかもうよくわからなかった。

 

内容が悪い、伝え方が悪い、ということではなく、

しゃべってる先生が一体何を考えているのか、よくわからない。まるで能面をかぶったように、どこを見ているのか、誰に話しているのかわからない。何か、機械が話しているよう。

そして当然子どもたちは話を聞かない。リアリティを感じないことを人は本来嫌う。子どもならなおさらそうで。

そして時間の経過と共にどんどん子どもと先生の距離が離れていく。

 

 

うーんこのままいっちゃったら、こりゃもう無理かもな。とも思った。

 

夏休みに入って、周りの人の力も借りながらその先生といろんなことを試してみた。

 

「先生としてじゃなくて、自分自身として話してみたらどうなるだろう?」ということを繰り返し二人で探究してみた。

 

”先生であるとき” と ”ふだんの自分”の違いはなんだろう。

今なんか先生ぽくしなきゃと思ったよね。

もっと普通でいいよ。

 

そんなことしてるうちにだんだん自然に、そして素直に、最終的にはとてもはっちゃけて話せるようになった。

そんなときにふっとその先生が言ったのが

 

「こんなにふざけてても伝わるんですか」

 

という言葉だった。

 

そして、昔から親戚にお調子者だと言われてきたことや、年齢を経るごとにそんな自分は受け入れられないんだと判断して自分を押さえ込もうとしてきたたことを教えてくれた。

 

本人にとっては人生を通してタブーな領域。

そして、「こんな先生見たことない、だめだ。」と言った。

 

そんなわけない!

あなたがあなたを出さなかったら、先生をやる意味がない!

 

 

そして彼は夏休みを終えて、今教壇に立っている。

そして、子どもたちと新しい関係を築こうとしている。

 

それで完璧で何の問題も起こらないなんてわけでもなく、彼は間違いなくいろんなことを感じている。

子どもたちといろんなことを感じて共有していれば、きっと次に模索しなきゃいけないことが見えてくる。距離をとって自分を隠さなきゃいけないと思っていたときとは、別のものが見えてくる。

先生としての役割を果たすことと、自分らしさを抑えることは、イコールじゃない。

職業として、技能は絶対に必要だと思う。自分らしくやれば全てがうまくいくわけじゃない。成長し続けなければいけない。

 

でも、もし巧くやることを追求しすぎて自分がなくなるようなら、それはもう何がしたかったんだろう?

 

子ども一人一人の個性が大切なように、大人一人一人の個性だっておんなじように大切だし、尊いし、とても価値がある。

 

そして、「それを大切にして生きていこう」ってことを子どもの前で体現できるような自分でいたい。

 

おわり