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教師を始めて一週間で「もうここですることは何もない」と思った話。

今だから言えることだけど、教師を始めて一週間くらいで、「ああもうここでしたいことは何もないな」と思った。

ずっと抱いていた「教育をもっと良くしたい」という思いの先には、「もっと日々を、そして人生をワクワクして過ごす大人が増えたら良いのに」という世間を憂うような思いがあった。 そしてどうしてそうなっちゃうんだろうと考えたときに、「価値観を形成していく」というところにポイントがあると判断した。モノの見方で人生は変わる。

自分が熱中出来ることを見つけ、誰かの為を思って生きていくことは素晴らしい。そう感じてもらえることが大切だと思った。自分が子ども達と出会ったとき一番に伝えたいことはそれだった。

自分が企業に勤めてからの3年間、どんなことがより良い人生を送るためのエッセンスなんだろう?ということをずっと考えていました。

そしてたくさんの人や出来事と出会って出た一つの結論は、幸せな人生を送っている人、もっと言えば「成功」しているような人は、皆自分がしていることにワクワク感を持っていた。我慢してイヤイヤそれをやってる人なんていない。表現のタイプはそれぞれだけど、自分のしていることに情熱があったり、志があったりして、何よりその状況を楽しんでいた。

そして類は友を呼ぶわけで、そんな人の周りには、そんな人が集まっている。そこにまた相乗効果が生まれる。そんなライフスタイルを送っているから、貢献意識が非常に高い。これもまた例外無く。

そして教室を見てみる。

彼らと教室で会った瞬間、「あぁ変わる必要があるのは子どもではなく、大人なのね。」というある種の結論みたいなものが出てしまった。

何とも当たり前のことだけども、子どもは日々ワクワクしている。日常から夢中になるものをいくらでも探してくる。「やりたいことがないんです」なんて憂鬱な大人のような表情をしてる子はそうそういない。

いつ何時も、何かしら思いついて子どもは楽しもうとしている。自由な時間とスペースが与えられれば、どんどん新しいことを勝手に生み出していく。ダンボールを使って、音楽でクイズを考えて、写真を撮ってポスターを作って。とにかく夢中で取り組む。大人の都合なんて無視して、ひたすらに没頭している。

そして「誰かの役に立ちたい」という気持ちも非常に強い。お手伝いを頼めばそれを取り合ってケンカをするくらい。ありがとう、と声をかけるとうれしがっていくらでも掃除をしてくれる。

そんな子ども達に、これ以上何を伝える必要があるだろうか?

彼らはそのままいけばいい。少なくとも自分はそう思っている。自分がしていることに夢中になって技能を磨き、誰かに貢献する喜びを覚える。そんな人間であってほしいと思う。

でも実際はそのままいけない現状がある。大人に近づくに連れてどんどんその姿勢が変わっていく。やりたいことがなくなったり、誰かのために何かをする喜びが薄れていったりする。これは、大人が魅せている世界があまりにも魅力的じゃないからではないのか。

さんざ教育を変えたいと言ってきたけれど、「じゃあそれを語るお前の人生はどうなんだ」ともう一度自分に問う必要がある。教育を語ることは人生を語ることじゃないのか。子どもは想像以上に大人をよく見ている。語りかける言葉より日々過ごす姿勢が彼らに及ぼす影響の方がはるかに大きい。

一節で、「教育の根幹は立派な大人を育てることだ」と文科省の人が言っていたけど、そうであるならば子どもが「大人になるの楽しみだな」と思えるような顔つきを、私たちがしてるのかともう一度問うべきなんじゃないか。考えるべきところは、その1点に尽きるんじゃないかと思うわけです。

教育改革に声を上げるよりも先に、責任をとらなければいけない範囲があるんじゃないか。

子どもに押し付けたり、期待で彼らを押しつぶす前に。その分自分の人生にもっと責任を持つべきだった。

世の中を変えるっていうのは、自分を変えていくってことじゃあないのか。

今から、此処から、我から。

おしまい

 

2014/12/13 


教育を考えるというのは理想の未来を考えるということ

 

どんな教育が必要かって考えてみる。

 

教育の結果というのは、未来の社会であったり、未来の世の中なわけで

理想の教育を考えるということは、どんな未来を作りたいか、ってことを考えることだと思う。

 

もちろん時代の変化を予測することも大切かもしれない。でも俺が常々思うのは、この子たちは適応するんじゃなくて、創造していくんじゃないのかな、ということ。

 

「どう適応するか?」という問いは最初から色んな限定を孕んでいる。

もちろん前提になっている状態を作る必要はある。でも適応することが目的じゃなくて、あくまでこんな世界になったらハッピーだな、と思うものをみんなで作っていくことが目的なんじゃないかと思う。

適応するのでなく、創り出す。「創り出せるんだ」という気概とそのチカラを身につけることが必要なんじゃないかな。ビジョンに目を向ける。

 

そして、それは大人が先に見せてあげるのが一番早いのだと思う。俺たちがまずビジョンからスタートする。

子どもが大人を見て真似をするという力たるや、半端じゃないものがある。

 

俺はじゃあどんな未来をつくりたいだろ・・・

 

もっと生産的(形式的な無駄がない)で

みんなが繋がっていて

有機的なコミュニケーションが起きて

アートな部分がたくさん発揮されて

没頭してワクワクして仕事(作品)が作られていって

それぞれがそれぞれの営みに感動するような

互いに素直に感情を表現できるような

自分は、自分でいれて幸せだなあと思えるような

あなたがいてくれてよかったなあと、たくさんの人に対して思えるような

 

そんな世の中にしたいな。

 

「そんな世の中にするには、どうしたらいいかな?」

「そしてあなたは、どんな世界だったらいいと思う?」

 

そういうところから始めたらいいんかな。

 

 


教育の前提を

 

 

教育に関心を持って活動をしていて、いつもどこか腑に落ちない論調がある。

「これからは混迷な時代。それをどう乗り越えていくかを考えなくてはいけない」

「これからのこの日本、どうやって生き残るのか。」

 

俺たちはサバイバルゲームでもやってるんだろうか?

 

時代は変わっていく。速いも遅いも、今までだってたくさん変わってきた。

 

その上で、教育が果たす役割ってなんだろう?

俺たちは、生き残るために生きてるんだろうか。人生を生き抜かないとならないから、子どもに何かを伝えるんだろうか。

その意識から生まれる伝え方は、子どもたちの「世の中」の定義にどんな影響を与えるだろう?

 

 

「社会にどう適応していくか?」という問いは本当により良いものを生むだろうか?

俺たちが考えるべきことは、

「この子たちはどんな世界をつくっていくんだろう?」という問いだ。

もっと言えば、

「この子たちはどんな風に生きていきたいんだろう?」という問いだ。

そしてそのために必要なことを考える。

それにはきっと、たくさんのことを知る必要も出てくる。結局は今必要なものと変わらないかもしれない。でも目的が違うだけできっとたくさんのことが違ってくる。

 

子どもは未来だと思う。

未来をつくっていこうと思う人にしか、新しい未来は作れない。

 

 


学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。

昔書いていた、『もし元楽天社員が学校の先生になったら』というブログが、サーバーの更新を忘れているうちになんと消えてしまいました。

が、過去データを漁っていたら何件かブログが残っていたので、せっかくと思い再掲してみることにしました。

現場にいたときのブログを見返すと、我ながら血が通っているというか、リアルさがこめられていて、やっぱり大切なものは現場でしか感じ取れないなぁと思います。

これは、2014/10/12 のブログ。

『学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。』

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このブログを書いている個人的な目的として、かつて教育現場にいなかった自分に宛てて記していくというニュアンスがあります。このテーマは一貫して持っているつもりです。

現場のことを何もわからずに,教育への疑問や問題を嘆いていた当時の自分を思い出すと色んな感情が出てきます。それくらい、教師に関わらず何かを当事者として経験するということは大きいものだと、この経験を通して感じています。

子ども時代の思い出話をする人と、日々仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。

ただ、じゃあ当事者しか教育を語れないのか? というとそういうことではない思います。理解し合うスタンスと密なコミュニケーションがあれば成り立つことがたくさんある。

ただ、その割に教師の仕事の話を聞く機会は中々なかったりするし、わかっているようでわかっていないことが多く、何を話したらいいかわからない。

学校の外にいる人はおおよそ学校の話をするとき、自分の過去をベースにして、場合によっては思い出話のように話をするように思います。でも、教師にとって学校での出来事というのは思い出話でもなんでもなく当然提供者の「仕事」として会話をしているし、もっとリアリティがあることだったりする。ここに大きなギャップがある。

そもそも子ども時代の思い出話をする人と、日々の仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。結果極端な例をあげれば「え、先生って給食食べるんですよね?いいな~」みたいな大して意味の無いよくわからない話になることも多い。

先生からしたらそんなことは世間話にもなりはしない。その瞬間何かを共有することを諦める。それだけ話題のツボにズレがあるってことだと思います。

みんなどこかで横文字のビジネススキルの方がエラいと思っている。

学校の外にいると、教師のスキルを軽視してしまう傾向があるように思う。例えば30人の子どもを列に並ばせたり、話を聞かせてノートを取らせたり、という単純な作業を一つとっても、ぱっとやれと言われて出来るものじゃない。相応相当のコツがあるし、経験を持ってカンを働かせないといけない。教師はキャリアの積み重ねが出る仕事だと、つくづく思うこともあります。

でも、そんなことは外にいるとわからない。自分が小学生の頃を思い出して廊下に並んだことが浮かんでも、そんなことの難しさを微塵も感じたことがない。並んだ側しか経験したことがなくて、並ばせる側を経験したことがない。でも、なまじその場面を自分も体験しているし、自分の幼少期の記憶であるから「あ~そんなことしてたねぇ」と、なぜかちょっと上から目線だったりする。

保育園や幼稚園の先生も、そしてお母さんの仕事もそれに該当するところがあると思う。子育てのスキルはどうにも軽視されていないか。子どもを惹き付けて絵本を読んであげたり、オシメをとりかえたり、子どもの理屈のわからないケンカの仲裁をするよりも「マーケティング」とか「ロジカルシンキング」の方がエラいと、みんな心のどこかで思っている。そういった行為は、「小さいときの自分(してもらっていた頃)」と結びついてるから、どこか簡単で幼稚に見えていたりする。「あぁ、あれね」なんてわかった気になったりする。してもらった側でしかなかったのに。「誰もがしてもらってきたこと」は「誰もが出来ること」ではない。

それがいきすぎると、相手への配慮がなくなったりする。目をつむったまま「今の教育は、もっとすべきことがある」とか言ったりする。「今の社会に必要なことはこれだぞ」とか横暴に言ったりする。自分はたくさん身の回りの面倒を見てもらってきたのにね。

と、いうことをいつも過去の自分のために考え残すようにしています。

おしまい