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もう一度ここから、自分の言葉で書く

 

文章を書くっていうのは、俺にとって結構いろんな意味があって、

というか表現全般だけど

リアルな自分をそこに出すっていうことがとても大切。

 

うまく、上手に、わかりやすく

そんなものには価値がない

少なくとも自分にとっては。

 

昔毎日ブログを書いていたときがあったけど、「何か書こう」とするんじゃなくて、そのときの自分を言葉にするような感覚。

そしてそのときそのときの自分を表現できるっていうのは、とても贅沢なことです。

それを繰り返して、自分を確認して、また前に進む。

そういうことが自分を濃くするのだと思う。

 

昔同じようなことを書いたけど、なんとなく、自分を表現するのが申し訳なくなるようなときがある。「そんなことしてる場合じゃないだろう」と周りから言われそうなことが、俺なんかはここ1〜2年そんなことばっかりで、そんなんだからどんどん自分が死んでいっちゃう。

 

だめだ、それじゃ。

 

発想すべきは逆で、「そんなこと言ってないでやることやってからにしろ」をやめて「そんなときだから自分にたち返ろう」ってしないと、引き気味姿勢の負け試合ばっかりになってしまう。

 

そんなときだから、 そして どんなときでも

 

人生1回限りがあるから、自分でいる時間をたくさん持たないと、

生きてる意味ないよね。

 

なおや

 


教師を始めて一週間で「もうここですることは何もない」と思った話。

今だから言えることだけど、教師を始めて一週間くらいで、「ああもうここでしたいことは何もないな」と思った。

ずっと抱いていた「教育をもっと良くしたい」という思いの先には、「もっと日々を、そして人生をワクワクして過ごす大人が増えたら良いのに」という世間を憂うような思いがあった。 そしてどうしてそうなっちゃうんだろうと考えたときに、「価値観を形成していく」というところにポイントがあると判断した。モノの見方で人生は変わる。

自分が熱中出来ることを見つけ、誰かの為を思って生きていくことは素晴らしい。そう感じてもらえることが大切だと思った。自分が子ども達と出会ったとき一番に伝えたいことはそれだった。

自分が企業に勤めてからの3年間、どんなことがより良い人生を送るためのエッセンスなんだろう?ということをずっと考えていました。

そしてたくさんの人や出来事と出会って出た一つの結論は、幸せな人生を送っている人、もっと言えば「成功」しているような人は、皆自分がしていることにワクワク感を持っていた。我慢してイヤイヤそれをやってる人なんていない。表現のタイプはそれぞれだけど、自分のしていることに情熱があったり、志があったりして、何よりその状況を楽しんでいた。

そして類は友を呼ぶわけで、そんな人の周りには、そんな人が集まっている。そこにまた相乗効果が生まれる。そんなライフスタイルを送っているから、貢献意識が非常に高い。これもまた例外無く。

そして教室を見てみる。

彼らと教室で会った瞬間、「あぁ変わる必要があるのは子どもではなく、大人なのね。」というある種の結論みたいなものが出てしまった。

何とも当たり前のことだけども、子どもは日々ワクワクしている。日常から夢中になるものをいくらでも探してくる。「やりたいことがないんです」なんて憂鬱な大人のような表情をしてる子はそうそういない。

いつ何時も、何かしら思いついて子どもは楽しもうとしている。自由な時間とスペースが与えられれば、どんどん新しいことを勝手に生み出していく。ダンボールを使って、音楽でクイズを考えて、写真を撮ってポスターを作って。とにかく夢中で取り組む。大人の都合なんて無視して、ひたすらに没頭している。

そして「誰かの役に立ちたい」という気持ちも非常に強い。お手伝いを頼めばそれを取り合ってケンカをするくらい。ありがとう、と声をかけるとうれしがっていくらでも掃除をしてくれる。

そんな子ども達に、これ以上何を伝える必要があるだろうか?

彼らはそのままいけばいい。少なくとも自分はそう思っている。自分がしていることに夢中になって技能を磨き、誰かに貢献する喜びを覚える。そんな人間であってほしいと思う。

でも実際はそのままいけない現状がある。大人に近づくに連れてどんどんその姿勢が変わっていく。やりたいことがなくなったり、誰かのために何かをする喜びが薄れていったりする。これは、大人が魅せている世界があまりにも魅力的じゃないからではないのか。

さんざ教育を変えたいと言ってきたけれど、「じゃあそれを語るお前の人生はどうなんだ」ともう一度自分に問う必要がある。教育を語ることは人生を語ることじゃないのか。子どもは想像以上に大人をよく見ている。語りかける言葉より日々過ごす姿勢が彼らに及ぼす影響の方がはるかに大きい。

一節で、「教育の根幹は立派な大人を育てることだ」と文科省の人が言っていたけど、そうであるならば子どもが「大人になるの楽しみだな」と思えるような顔つきを、私たちがしてるのかともう一度問うべきなんじゃないか。考えるべきところは、その1点に尽きるんじゃないかと思うわけです。

教育改革に声を上げるよりも先に、責任をとらなければいけない範囲があるんじゃないか。

子どもに押し付けたり、期待で彼らを押しつぶす前に。その分自分の人生にもっと責任を持つべきだった。

世の中を変えるっていうのは、自分を変えていくってことじゃあないのか。

今から、此処から、我から。

おしまい

 

2014/12/13 


純度をあげるという

最近は「この人は本物だなぁ」と思う人と会うのがとても楽しくて、幸せだなと思う。俺の中で「本物」とはどういうことかというと「純度高く物事を見れる」ということ。

ありのままをとらえられる人は物事の本質が見えてる気がする。そういう人の話はとてもシンプルで、とても面白い。
そういう人は自分のエゴを満たすことに、もう飽きてしまっている感じがする。あの人がこうだから、とか自分にとってこんなメリットが、とかない。だからその物事だけに集中出来るのではないかと思う。

 

でもじゃエゴがあっちゃダメなのかというと、別にそんなことない。 承認されたいとか、パワーが欲しい、なんてことはみんなあるし、それでこそ人間、っていう感もある。 俺もそんなことばかり。

 

今までもそんなことがたくさんあった。 いい人でいたい、かっこよくいたい、尊敬されたい。そんなことのためにいろんなことしてきたなと思う。そんな自分に『君は人生を使って、何がしたいんだね。』と仙人気取りで問いかけたい。 とはいえやっぱりそれが人間だと思う。後悔とかはない。

 

そして、幸か不幸かこれからもあると思う。俺はなんかエラい人扱いされるのとても気持ちが悪くて、「様づけとかしないでよ」って学生さんにいうのだけど、うちのインターンが俺をあしらってくると、「え、もうちょっと丁重に扱ってよ泣」と思うことがある。でも実際丁重に扱われたら、めんどくさ!と言い出すだろうなと思う。ごめんなさい。面倒なのは私です。

 

えっと、純度高く物事を見るっていう話。

俺ももっとそういう見方ができるようになりたい。そして自分自身もっと素直に人間らしくいたいと思う。それを妨げているのは自分の恐れ(こう見られたい、見られたくない、という何層にもわたって出てくるやつ)なんだけど、 もっと自然にしていたいし、できれば無理とかしたくない。

 

「残念ながら、白田直也はこんなんでした」と世間様にも、子どもたちにも、保護者の方にもおっぴろげしたい。

と、思ったけど案外全部バレていて、自分だけが一人芝居をしているのかもしれない。人のことはよくわかるもんだけど、きっと自分も周りから見たらそうなんだろうな。

 

とにかくもう少し素直に生きていきたいと、思います。

それがきっと自分と、世界の見方の純度をあげるんだと思う。


在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

そういうことが人生においてとても大切なんじゃないかということを、今年に入ってすごく思うようになった。

これはとても重要な気づきだなと思ったので、最近考えていることをまとめてみることにしました。

 

ほしいもの、やりたいこと。

有名になることとか、きらびやかなもの。

そういうものは人間のエゴを上手に刺激して、たくさんの注意力をそこに使わせる。

そして実際にそれを手にしたときに大きな高揚感を感じる。

それを人に話せば、賞賛や羨望が手に入る。

 

 

そしてその類の高揚感のあとには、連なって虚無感が訪れる。

日が昇ったらまた沈むように、その二つは合わさって訪れて、

そしてそれを埋めるようにまた次の高揚感を追いかける。

さて、次の目標は何にしようか・・・

 

果たしてこれは本当に自分を幸せにしているんだろうか?

 

根本的なこと、本質的なこと、原理原則。

老子の本を最近読んでいて、「無為自然」という言葉をよく考える。

 

「無為」とは、「何もしようとしないで」ということ。それはつまりぼーっと突っ立ってる。ということじゃなく、

無理やりそれをコントロールしたり、無理に合わないものを収めようとしない、ということ。

在るべきところにいて、やるべきことをやる、というのは即ち、義務や強制ではなくて、自然なところにいて、自然なことをする。ということ。

違和感のないところ。無理のないこと。

謙り(へりくだり)や自負がないところ。

 

自分にとってのそういうコトを体感的にわかって生きている人が、世の中にはいる。

そういう人の話は、とてもおもしろい。エゴの太った話や、装飾品がジャラジャラついたような話をしない。

その人のすべきことを話す態度はとっても本質的なところをつかんでいて、深いところを共有してもらっている感じがする。

その人がビジネスをやってようが、アートをやってようがスポーツをやってようが、そこには確かな共通点があって、結果その人はいわゆる成功者であることが多い。

 

そして、これからそういう人がどんどん増えていくような気がしている。

自分にとって違和感があることから離れて、本当にただ自分を生きることだけで周りにとっての幸せになってしまう。そんな場所があることに、どんどん気づいていくようになる。

そういう世界では、「為そう為そう」としていることが、逆に窮屈さを生んだり、不自然さを生むようになるだろうなという気がする。

 

在るべきところにいるために、自分の純度を大切にして生きていく。

そういう自然な人と過ごすのは、それだけでとても心地のいいことです。