自分自身であることが一番幸せ

そんなこと最初からわかっている。

生まれた時はそんなことも考えずにみんなその状態で生きていて

知らず知らずのうちに、

「こっちのほうがいいよ」

「それはやめてね」

「そっちじゃないよ」

「こうしなよ、うまくいくよ」

色んな外からの力が時に変に働いて、自分の意思が歪んでいく。

判断や物事をどんな風に感じるか、最後は人は感覚に頼っている。

そこを修正されてしまうと、
(そしてときに脅されてしまったら)

自分でいること、自分の感覚をしまうようになってしまう。

自分自身でいることが一番価値があるよ、
あなたの感覚はとても面白い!

そういう向き合い方を、どれだけされてこれてるだろうか。

挙句に「自分の意見を持てない若者」なんて

勘弁してほしいよなぁ。


もう一度ここから、自分の言葉で書く

 

文章を書くっていうのは、俺にとって結構いろんな意味があって、

というか表現全般だけど

リアルな自分をそこに出すっていうことがとても大切。

 

うまく、上手に、わかりやすく

そんなものには価値がない

少なくとも自分にとっては。

 

昔毎日ブログを書いていたときがあったけど、「何か書こう」とするんじゃなくて、そのときの自分を言葉にするような感覚。

そしてそのときそのときの自分を表現できるっていうのは、とても贅沢なことです。

それを繰り返して、自分を確認して、また前に進む。

そういうことが自分を濃くするのだと思う。

 

昔同じようなことを書いたけど、なんとなく、自分を表現するのが申し訳なくなるようなときがある。「そんなことしてる場合じゃないだろう」と周りから言われそうなことが、俺なんかはここ1〜2年そんなことばっかりで、そんなんだからどんどん自分が死んでいっちゃう。

 

だめだ、それじゃ。

 

発想すべきは逆で、「そんなこと言ってないでやることやってからにしろ」をやめて「そんなときだから自分にたち返ろう」ってしないと、引き気味姿勢の負け試合ばっかりになってしまう。

 

そんなときだから、 そして どんなときでも

 

人生1回限りがあるから、自分でいる時間をたくさん持たないと、

生きてる意味ないよね。

 

なおや

 


「もし元楽天社員が学校の先生だったら」は終了することになりました。

ご無沙汰してます。

このたび、ブログ「もし元楽天社員が学校の先生だったら」は終了することになりました。

理由はただ一つ、もうこれ以上そのアイデンティティで発信したいことが無くなったからです。

このブログを始めて約1年半、アメブロ時代も入れると2年近くブログを書き続けていました。ブログを書き始めた当初は、「あんまり見えない教育現場の様子を自分の体験した自分の言葉で残し続けていこう」という思いで始めました。

もっと正直に言えば「民間経験者が学校現場をどう見るかなんて、なかなか切り口おもしろいだろう」という浅はかな下心がありました。

そして狙った通り、ブログはたくさんの人にシェアをして頂き、ついに先日の記事では単体で3万PVを越えるところまでいきました。そしてそういったことを繰り返すごとに、何かにがんじがらめになり、ウケそうなことを書こうとしては自分がイヤになる、そんなことを繰り返すことになりました。自分が設定したアイデンティティに合わせにいくことに必至だったわけです。

この2年弱の現場経験は私のとるに足らない教育観を根底からひっくり返す経験でした。それは、何がどう変わった、という言葉では表せないものです。故に、当初のような意図で何かを発信したり、まして何かを代弁することなど、出来るわけがないと感じるようになっていました。

新しいことにチャレンジして、とことんやってみたら、絶対自分が見えてくるんだと思うんです。それまで頭の中で予測しているだけのことが現実になって、そこで初めて自分の心とピントが合うようになる。

それは、なんかその仕事がわかったとか、真理がわかったとか、そういうことじゃなくて、やっぱり「自分のことがわかった」ということだと思うんです。

世間や社会をなんて語れない。仕事や業界、そしてまして人は括れない。

世の中の見え方は一人一人違うはずです。だったら共有はすべきことはあっても、強要すべきことなんて1つもない。でも自分の話はいくらでも出来る。思いがあるし、リアルがある。

その言葉の行き交いにこそ揺さぶられるものがあるんじゃないかと思うんです。

であればこれ以上「元民間企業」であること「教員」であることは重要なことではないと感じました。

全て一回リセットして、「自分として」思ったこと考えていることを発信していくという原点にきちんと立ち返りたいと思っています。

別にもう教育のことは書きませんから、ということではないんですが、等身大の自分の言葉として自分の体験を言葉にするという意図も込めて、ブログ名は変更し「もし元楽天社員が学校の先生だったら」はここで終了することにします。

ページにたくさんの方からいいねを頂いていたところで、期待はずれな部分もあるかもしれないのですが身勝手で申し訳ありません。より正直な発信ができるように努めます。

よければこれからも宜しくお願い致します。


教師を始めて一週間で「もうここですることは何もない」と思った話。

今だから言えることだけど、教師を始めて一週間くらいで、「ああもうここでしたいことは何もないな」と思った。

ずっと抱いていた「教育をもっと良くしたい」という思いの先には、「もっと日々を、そして人生をワクワクして過ごす大人が増えたら良いのに」という世間を憂うような思いがあった。 そしてどうしてそうなっちゃうんだろうと考えたときに、「価値観を形成していく」というところにポイントがあると判断した。モノの見方で人生は変わる。

自分が熱中出来ることを見つけ、誰かの為を思って生きていくことは素晴らしい。そう感じてもらえることが大切だと思った。自分が子ども達と出会ったとき一番に伝えたいことはそれだった。

自分が企業に勤めてからの3年間、どんなことがより良い人生を送るためのエッセンスなんだろう?ということをずっと考えていました。

そしてたくさんの人や出来事と出会って出た一つの結論は、幸せな人生を送っている人、もっと言えば「成功」しているような人は、皆自分がしていることにワクワク感を持っていた。我慢してイヤイヤそれをやってる人なんていない。表現のタイプはそれぞれだけど、自分のしていることに情熱があったり、志があったりして、何よりその状況を楽しんでいた。

そして類は友を呼ぶわけで、そんな人の周りには、そんな人が集まっている。そこにまた相乗効果が生まれる。そんなライフスタイルを送っているから、貢献意識が非常に高い。これもまた例外無く。

そして教室を見てみる。

彼らと教室で会った瞬間、「あぁ変わる必要があるのは子どもではなく、大人なのね。」というある種の結論みたいなものが出てしまった。

何とも当たり前のことだけども、子どもは日々ワクワクしている。日常から夢中になるものをいくらでも探してくる。「やりたいことがないんです」なんて憂鬱な大人のような表情をしてる子はそうそういない。

いつ何時も、何かしら思いついて子どもは楽しもうとしている。自由な時間とスペースが与えられれば、どんどん新しいことを勝手に生み出していく。ダンボールを使って、音楽でクイズを考えて、写真を撮ってポスターを作って。とにかく夢中で取り組む。大人の都合なんて無視して、ひたすらに没頭している。

そして「誰かの役に立ちたい」という気持ちも非常に強い。お手伝いを頼めばそれを取り合ってケンカをするくらい。ありがとう、と声をかけるとうれしがっていくらでも掃除をしてくれる。

そんな子ども達に、これ以上何を伝える必要があるだろうか?

彼らはそのままいけばいい。少なくとも自分はそう思っている。自分がしていることに夢中になって技能を磨き、誰かに貢献する喜びを覚える。そんな人間であってほしいと思う。

でも実際はそのままいけない現状がある。大人に近づくに連れてどんどんその姿勢が変わっていく。やりたいことがなくなったり、誰かのために何かをする喜びが薄れていったりする。これは、大人が魅せている世界があまりにも魅力的じゃないからではないのか。

さんざ教育を変えたいと言ってきたけれど、「じゃあそれを語るお前の人生はどうなんだ」ともう一度自分に問う必要がある。教育を語ることは人生を語ることじゃないのか。子どもは想像以上に大人をよく見ている。語りかける言葉より日々過ごす姿勢が彼らに及ぼす影響の方がはるかに大きい。

一節で、「教育の根幹は立派な大人を育てることだ」と文科省の人が言っていたけど、そうであるならば子どもが「大人になるの楽しみだな」と思えるような顔つきを、私たちがしてるのかともう一度問うべきなんじゃないか。考えるべきところは、その1点に尽きるんじゃないかと思うわけです。

教育改革に声を上げるよりも先に、責任をとらなければいけない範囲があるんじゃないか。

子どもに押し付けたり、期待で彼らを押しつぶす前に。その分自分の人生にもっと責任を持つべきだった。

世の中を変えるっていうのは、自分を変えていくってことじゃあないのか。

今から、此処から、我から。

おしまい

 

2014/12/13 


教育を考えるというのは理想の未来を考えるということ

 

どんな教育が必要かって考えてみる。

 

教育の結果というのは、未来の社会であったり、未来の世の中なわけで

理想の教育を考えるということは、どんな未来を作りたいか、ってことを考えることだと思う。

 

もちろん時代の変化を予測することも大切かもしれない。でも俺が常々思うのは、この子たちは適応するんじゃなくて、創造していくんじゃないのかな、ということ。

 

「どう適応するか?」という問いは最初から色んな限定を孕んでいる。

もちろん前提になっている状態を作る必要はある。でも適応することが目的じゃなくて、あくまでこんな世界になったらハッピーだな、と思うものをみんなで作っていくことが目的なんじゃないかと思う。

適応するのでなく、創り出す。「創り出せるんだ」という気概とそのチカラを身につけることが必要なんじゃないかな。ビジョンに目を向ける。

 

そして、それは大人が先に見せてあげるのが一番早いのだと思う。俺たちがまずビジョンからスタートする。

子どもが大人を見て真似をするという力たるや、半端じゃないものがある。

 

俺はじゃあどんな未来をつくりたいだろ・・・

 

もっと生産的(形式的な無駄がない)で

みんなが繋がっていて

有機的なコミュニケーションが起きて

アートな部分がたくさん発揮されて

没頭してワクワクして仕事(作品)が作られていって

それぞれがそれぞれの営みに感動するような

互いに素直に感情を表現できるような

自分は、自分でいれて幸せだなあと思えるような

あなたがいてくれてよかったなあと、たくさんの人に対して思えるような

 

そんな世の中にしたいな。

 

「そんな世の中にするには、どうしたらいいかな?」

「そしてあなたは、どんな世界だったらいいと思う?」

 

そういうところから始めたらいいんかな。

 

 


すっごい秘訣に気づいてしまった。。

 

 

すっごい秘訣に気づいてしまった。。

 

俺は常々、リアルでないとおもしろくないよなぁというようなことを思っていて、実際そういうことを人にもよく話す。

 

俺は歌うのが好きなんだけど、この前歌ってるときに、「あれ?そもそもこれこそ、もっとリアルにやらないと」と思った。表現の類は特にそういうものの差が顕著に出る。(岡本太郎美術感とかリアルの極み

なんか嘘くさいな〜と自分で感じる時は、実際に自分とそれ(表現)が繋がっていない。そういう違和感って考えたことはなくとも誰もが一度は感じたことがあると思う。

(話は戻って)

そして、もっとリアルに歌ってみようと思った。 人に偉そうに言ってるくらいだから自分がやらないと話にならんなと思って。

でも、さて「リアルにやる」ってどうやるんだろうな?と思った。

感情を表現する?

感じてみる?

今ここにいてみる?

リアルさってなんやねんと思った。 いつも言ってるくせに。

 

そこでそうこう試しているうちに気づいたわけだ。

歌=俺

っていうのが一番リアルなんじゃないかと。

つまりどう歌うか、どんな自分で歌うかじゃなくて、歌に「自分を込める」という行為をする。

これに気づいた瞬間とてもびっくらぽんだった。

 

俺は特に話したり書いたり歌ったり、言葉を介した表現がとても好きだし、本当に長年こだわってやってきているので実際かなり得意だと思っている。

なのでうまくいったこともいかなかったことも多々あって、その違いは一体なんだろう?ということを考え続けてきた。 うまくいくとき、というのは「伝わってるな」ということがリアルタイムでわかる。

おもしろいことに、書いているときもリアルタイムでわかる。「こりゃ、バズるな」と思う。(そして実際バズる)そういうときのことを俺は「鮮度を保つ」という表現で捉えていた。その瞬間の自分の感じをそこに込められたな、と思うときに、それは人前に出す以前にもう「伝わるもの」になっているのがわかる。

真空パックにしたら鮮度が保たれるな、と食べる前からわかるのと同じ。

 

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話しているときも、「なーんか今上ずってるな」ということに最近は出来るだけ早く気づきたいと思っている。

俺なんかもうペラペラ上手に話せてしまうものだから、よく自分自身を置き去りにしてしまう。上手に言葉だけが並べられていくけど、そこには何もない。そんなときの自分の話は懺悔をこえて死にたくなるらいおもしろくない。でもそこに自分があるときは、言葉足らずとも伝わる。

 

そんでもって、それに対する今までの俺の解決策は「自分でいる」ということだった。 大きく見せたり卑下したりせず、等身大でいようと思うことでそれはある程度防げると思っていた。

同時にそれでもまだまだ足りないなと思っていた。 今ならわかるんだけど、それってまだ「自分」にこだわってるからなんだ。

 

そうじゃなくて、自分を忘れて表現そのものと一体になる。っていうことが真骨頂なんだと思った。

表現=自分という状態。文字=自分。言葉=自分。歌=自分。 それがそのそれ。

つまり、俺は俺らしく歌うのではなく、「歌という自分」そのものを目の前に人に届けるというわけです。

こりゃーたまげた!世紀の大発見!

 

「俺そのもの」が伝われば、相手と繋がらないわけがない。だって俺が100%直航便で相手のもとに行くわけだから、それで全てが完結しているじゃないか。  そういう感覚で文章を書けばいいし、 そういう感覚で人前で話すことができたら、もっと多くの人とリアルに繋がれる。

なんてこったです。

 

ちなみに、この行為と自分が一体になることを心理学ではフロー状態といって、超集中状態で疲れも感じず、ずば抜けた成果が出ると言われている。

禅でたどり着くのもこの境地で、黒子のバスケ的にいうとゾーンに入る、ということです。

そういうことが大好きで昔からたくさん文献を読み漁ってきたのだけど、どんどん体感出来ることが増えてきた。

 

でもわかった瞬間とできなくなる。わかった通りにやろうとするから。

それはリアルじゃない。

 

探究はつづくのでした。


純度をあげるという

最近は「この人は本物だなぁ」と思う人と会うのがとても楽しくて、幸せだなと思う。俺の中で「本物」とはどういうことかというと「純度高く物事を見れる」ということ。

ありのままをとらえられる人は物事の本質が見えてる気がする。そういう人の話はとてもシンプルで、とても面白い。
そういう人は自分のエゴを満たすことに、もう飽きてしまっている感じがする。あの人がこうだから、とか自分にとってこんなメリットが、とかない。だからその物事だけに集中出来るのではないかと思う。

 

でもじゃエゴがあっちゃダメなのかというと、別にそんなことない。 承認されたいとか、パワーが欲しい、なんてことはみんなあるし、それでこそ人間、っていう感もある。 俺もそんなことばかり。

 

今までもそんなことがたくさんあった。 いい人でいたい、かっこよくいたい、尊敬されたい。そんなことのためにいろんなことしてきたなと思う。そんな自分に『君は人生を使って、何がしたいんだね。』と仙人気取りで問いかけたい。 とはいえやっぱりそれが人間だと思う。後悔とかはない。

 

そして、幸か不幸かこれからもあると思う。俺はなんかエラい人扱いされるのとても気持ちが悪くて、「様づけとかしないでよ」って学生さんにいうのだけど、うちのインターンが俺をあしらってくると、「え、もうちょっと丁重に扱ってよ泣」と思うことがある。でも実際丁重に扱われたら、めんどくさ!と言い出すだろうなと思う。ごめんなさい。面倒なのは私です。

 

えっと、純度高く物事を見るっていう話。

俺ももっとそういう見方ができるようになりたい。そして自分自身もっと素直に人間らしくいたいと思う。それを妨げているのは自分の恐れ(こう見られたい、見られたくない、という何層にもわたって出てくるやつ)なんだけど、 もっと自然にしていたいし、できれば無理とかしたくない。

 

「残念ながら、白田直也はこんなんでした」と世間様にも、子どもたちにも、保護者の方にもおっぴろげしたい。

と、思ったけど案外全部バレていて、自分だけが一人芝居をしているのかもしれない。人のことはよくわかるもんだけど、きっと自分も周りから見たらそうなんだろうな。

 

とにかくもう少し素直に生きていきたいと、思います。

それがきっと自分と、世界の見方の純度をあげるんだと思う。


教育の前提を

 

 

教育に関心を持って活動をしていて、いつもどこか腑に落ちない論調がある。

「これからは混迷な時代。それをどう乗り越えていくかを考えなくてはいけない」

「これからのこの日本、どうやって生き残るのか。」

 

俺たちはサバイバルゲームでもやってるんだろうか?

 

時代は変わっていく。速いも遅いも、今までだってたくさん変わってきた。

 

その上で、教育が果たす役割ってなんだろう?

俺たちは、生き残るために生きてるんだろうか。人生を生き抜かないとならないから、子どもに何かを伝えるんだろうか。

その意識から生まれる伝え方は、子どもたちの「世の中」の定義にどんな影響を与えるだろう?

 

 

「社会にどう適応していくか?」という問いは本当により良いものを生むだろうか?

俺たちが考えるべきことは、

「この子たちはどんな世界をつくっていくんだろう?」という問いだ。

もっと言えば、

「この子たちはどんな風に生きていきたいんだろう?」という問いだ。

そしてそのために必要なことを考える。

それにはきっと、たくさんのことを知る必要も出てくる。結局は今必要なものと変わらないかもしれない。でも目的が違うだけできっとたくさんのことが違ってくる。

 

子どもは未来だと思う。

未来をつくっていこうと思う人にしか、新しい未来は作れない。

 

 


学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。

昔書いていた、『もし元楽天社員が学校の先生になったら』というブログが、サーバーの更新を忘れているうちになんと消えてしまいました。

が、過去データを漁っていたら何件かブログが残っていたので、せっかくと思い再掲してみることにしました。

現場にいたときのブログを見返すと、我ながら血が通っているというか、リアルさがこめられていて、やっぱり大切なものは現場でしか感じ取れないなぁと思います。

これは、2014/10/12 のブログ。

『学校の外にいる人は先生のスキルを軽視してしまう。』

>>

このブログを書いている個人的な目的として、かつて教育現場にいなかった自分に宛てて記していくというニュアンスがあります。このテーマは一貫して持っているつもりです。

現場のことを何もわからずに,教育への疑問や問題を嘆いていた当時の自分を思い出すと色んな感情が出てきます。それくらい、教師に関わらず何かを当事者として経験するということは大きいものだと、この経験を通して感じています。

子ども時代の思い出話をする人と、日々仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。

ただ、じゃあ当事者しか教育を語れないのか? というとそういうことではない思います。理解し合うスタンスと密なコミュニケーションがあれば成り立つことがたくさんある。

ただ、その割に教師の仕事の話を聞く機会は中々なかったりするし、わかっているようでわかっていないことが多く、何を話したらいいかわからない。

学校の外にいる人はおおよそ学校の話をするとき、自分の過去をベースにして、場合によっては思い出話のように話をするように思います。でも、教師にとって学校での出来事というのは思い出話でもなんでもなく当然提供者の「仕事」として会話をしているし、もっとリアリティがあることだったりする。ここに大きなギャップがある。

そもそも子ども時代の思い出話をする人と、日々の仕事の話をする人の会話がかみ合うわけがない。結果極端な例をあげれば「え、先生って給食食べるんですよね?いいな~」みたいな大して意味の無いよくわからない話になることも多い。

先生からしたらそんなことは世間話にもなりはしない。その瞬間何かを共有することを諦める。それだけ話題のツボにズレがあるってことだと思います。

みんなどこかで横文字のビジネススキルの方がエラいと思っている。

学校の外にいると、教師のスキルを軽視してしまう傾向があるように思う。例えば30人の子どもを列に並ばせたり、話を聞かせてノートを取らせたり、という単純な作業を一つとっても、ぱっとやれと言われて出来るものじゃない。相応相当のコツがあるし、経験を持ってカンを働かせないといけない。教師はキャリアの積み重ねが出る仕事だと、つくづく思うこともあります。

でも、そんなことは外にいるとわからない。自分が小学生の頃を思い出して廊下に並んだことが浮かんでも、そんなことの難しさを微塵も感じたことがない。並んだ側しか経験したことがなくて、並ばせる側を経験したことがない。でも、なまじその場面を自分も体験しているし、自分の幼少期の記憶であるから「あ~そんなことしてたねぇ」と、なぜかちょっと上から目線だったりする。

保育園や幼稚園の先生も、そしてお母さんの仕事もそれに該当するところがあると思う。子育てのスキルはどうにも軽視されていないか。子どもを惹き付けて絵本を読んであげたり、オシメをとりかえたり、子どもの理屈のわからないケンカの仲裁をするよりも「マーケティング」とか「ロジカルシンキング」の方がエラいと、みんな心のどこかで思っている。そういった行為は、「小さいときの自分(してもらっていた頃)」と結びついてるから、どこか簡単で幼稚に見えていたりする。「あぁ、あれね」なんてわかった気になったりする。してもらった側でしかなかったのに。「誰もがしてもらってきたこと」は「誰もが出来ること」ではない。

それがいきすぎると、相手への配慮がなくなったりする。目をつむったまま「今の教育は、もっとすべきことがある」とか言ったりする。「今の社会に必要なことはこれだぞ」とか横暴に言ったりする。自分はたくさん身の回りの面倒を見てもらってきたのにね。

と、いうことをいつも過去の自分のために考え残すようにしています。

おしまい


在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

在るべきところにいて、やるべきことをやる。

 

そういうことが人生においてとても大切なんじゃないかということを、今年に入ってすごく思うようになった。

これはとても重要な気づきだなと思ったので、最近考えていることをまとめてみることにしました。

 

ほしいもの、やりたいこと。

有名になることとか、きらびやかなもの。

そういうものは人間のエゴを上手に刺激して、たくさんの注意力をそこに使わせる。

そして実際にそれを手にしたときに大きな高揚感を感じる。

それを人に話せば、賞賛や羨望が手に入る。

 

 

そしてその類の高揚感のあとには、連なって虚無感が訪れる。

日が昇ったらまた沈むように、その二つは合わさって訪れて、

そしてそれを埋めるようにまた次の高揚感を追いかける。

さて、次の目標は何にしようか・・・

 

果たしてこれは本当に自分を幸せにしているんだろうか?

 

根本的なこと、本質的なこと、原理原則。

老子の本を最近読んでいて、「無為自然」という言葉をよく考える。

 

「無為」とは、「何もしようとしないで」ということ。それはつまりぼーっと突っ立ってる。ということじゃなく、

無理やりそれをコントロールしたり、無理に合わないものを収めようとしない、ということ。

在るべきところにいて、やるべきことをやる、というのは即ち、義務や強制ではなくて、自然なところにいて、自然なことをする。ということ。

違和感のないところ。無理のないこと。

謙り(へりくだり)や自負がないところ。

 

自分にとってのそういうコトを体感的にわかって生きている人が、世の中にはいる。

そういう人の話は、とてもおもしろい。エゴの太った話や、装飾品がジャラジャラついたような話をしない。

その人のすべきことを話す態度はとっても本質的なところをつかんでいて、深いところを共有してもらっている感じがする。

その人がビジネスをやってようが、アートをやってようがスポーツをやってようが、そこには確かな共通点があって、結果その人はいわゆる成功者であることが多い。

 

そして、これからそういう人がどんどん増えていくような気がしている。

自分にとって違和感があることから離れて、本当にただ自分を生きることだけで周りにとっての幸せになってしまう。そんな場所があることに、どんどん気づいていくようになる。

そういう世界では、「為そう為そう」としていることが、逆に窮屈さを生んだり、不自然さを生むようになるだろうなという気がする。

 

在るべきところにいるために、自分の純度を大切にして生きていく。

そういう自然な人と過ごすのは、それだけでとても心地のいいことです。