30歳。

 

この前、夏野剛さんとイベントでご一緒させていただいた。

ここ数ヶ月で、一番自分らしく話が出来ているなと思ったイベントだった。

 

俺はなんでこんなにこだわるのか。

自分でもよくわからない。

でも教育をもっとより良くしたい。変えていきたい。

人間らしく生きる人が増えて欲しい。

人間らしさとは感性の話だ。理性は機械がしてくれる。

俺たちは感性を豊かにしないといけない。

だって幸せをシェアし合って、感じるために生きてるんだから。

 

それは自然、感動、喜怒哀楽や、その場の空気。

 

本当に大切なことを見失っちゃいけない。

俺たちが人間らしく生きること。その美しさみたいなものを全身で味わうこと。

 

子どもたちは最初からそうしてる。

それをどんな風に豊かにするか、これが教育の仕事だと思う。

 

教育の目的は、みんなが幸せに生きていくということ。

その力と、それを感じる感性を。

 

そして人間らしく生きる社会を作る。

 

 

 

びんかん



自分のことを敏感だと思っている人が

「鈍感なあなたは私の気持ちなんてわからない」 という

それを言われた鈍感な人がどんな気持ちでいるのかに

気づかないまま

 

わたしはあなたで あなたはわたしだろう

わかっている私がわからないあなたを作り

わかっている私からは、”わからないあなた”をわかれない

 

先生と自分らしさ

 

「自分らしくやったらこんなに楽しいなんて。」

という話を、うちの先生が言っていたと聞いた。

 

たまらなく嬉しかった。

 

その先生は、1学期全然 子どもとうまいくいかず、とても苦しんでいた。

ここには書けないくらいすさんでしまっていて、子どもをとても怖がっているようすら見えた。

 

でもそんな人が今「子どもってすごい」と言っているらしい。

「こんなに自分を出せることを知れただけでも教師をやれてよかった」と言っているらしい。

 

 

1学期のその人の授業は、なんかもうよくわからなかった。

 

内容が悪い、伝え方が悪い、ということではなく、

しゃべってる先生が一体何を考えているのか、よくわからない。まるで能面をかぶったように、どこを見ているのか、誰に話しているのかわからない。何か、機械が話しているよう。

そして当然子どもたちは話を聞かない。リアリティを感じないことを人は本来嫌う。子どもならなおさらそうで。

そして時間の経過と共にどんどん子どもと先生の距離が離れていく。

 

 

うーんこのままいっちゃったら、こりゃもう無理かもな。とも思った。

 

夏休みに入って、周りの人の力も借りながらその先生といろんなことを試してみた。

 

「先生としてじゃなくて、自分自身として話してみたらどうなるだろう?」ということを繰り返し二人で探究してみた。

 

”先生であるとき” と ”ふだんの自分”の違いはなんだろう。

今なんか先生ぽくしなきゃと思ったよね。

もっと普通でいいよ。

 

そんなことしてるうちにだんだん自然に、そして素直に、最終的にはとてもはっちゃけて話せるようになった。

そんなときにふっとその先生が言ったのが

 

「こんなにふざけてても伝わるんですか」

 

という言葉だった。

 

そして、昔から親戚にお調子者だと言われてきたことや、年齢を経るごとにそんな自分は受け入れられないんだと判断して自分を押さえ込もうとしてきたたことを教えてくれた。

 

本人にとっては人生を通してタブーな領域。

そして、「こんな先生見たことない、だめだ。」と言った。

 

そんなわけない!

あなたがあなたを出さなかったら、先生をやる意味がない!

 

 

そして彼は夏休みを終えて、今教壇に立っている。

そして、子どもたちと新しい関係を築こうとしている。

 

それで完璧で何の問題も起こらないなんてわけでもなく、彼は間違いなくいろんなことを感じている。

子どもたちといろんなことを感じて共有していれば、きっと次に模索しなきゃいけないことが見えてくる。距離をとって自分を隠さなきゃいけないと思っていたときとは、別のものが見えてくる。

先生としての役割を果たすことと、自分らしさを抑えることは、イコールじゃない。

職業として、技能は絶対に必要だと思う。自分らしくやれば全てがうまくいくわけじゃない。成長し続けなければいけない。

 

でも、もし巧くやることを追求しすぎて自分がなくなるようなら、それはもう何がしたかったんだろう?

 

子ども一人一人の個性が大切なように、大人一人一人の個性だっておんなじように大切だし、尊いし、とても価値がある。

 

そして、「それを大切にして生きていこう」ってことを子どもの前で体現できるような自分でいたい。

 

おわり

 

自分らしさとリーダーシップ

 

しんどい時期がこの1年くらい続いてたのだけど、だんだんそれが変化しようとしてきているので、ここらへんからできるだけ残しておこうと思う。

きっとこれからまた同じようにチャレンジをするときに、何かの役に立つから。

 

 

今回、Teach For JapanのCEOになったことというのは自分にとって本当に大きな大きなチャレンジだった。

 

それはTFJがすごい組織だからとか、社長になるから、とかそういう表面的な理由ではなくて、「ここでどれくらい自分らしくいれるのだろうか」という観点で、かなり難易度の高い場所に突入することがわかっていたから。

 

自分らしく生きるということと、「自分を許容されないかもしれない環境に立つ」ということは、真逆のことを指している。

 

「身勝手ではいけない」

「こうあるべき」

 

だから周りを気にする、バランスをとる。

 

こういうことをしてると自分を「調整のためのネジ」みたいな使い方をするようになる。

 

どんどん色がなくなって、軸がなくなって、バランスを取ろうとする。

そして自分自身が、不安定になりパワーが出なくなって行く。

 

こうして自分が死んでいく。

 

 

これは2年間の教師経験での失敗にとても似ている。

 

 

先生になると、どこかで「先生らしくしないといけない」と思う。

 

そうすると、言葉や態度にどこか”ふり”が出てくる。

 

自分は腑に落ちてないのに伝えないといけないことや、言いたいのに言えないことが増えていく。

 

こうした信念の通っていない言動は、根底には「恐れ」があって、それを避けるためにその場その場で頭を使って「あるべき」を追おうとする。

 

こうなると、一つ一つの言動が徐々に一貫性をなくしていって、混乱を生み、最終的に人がついてこなくなるという負の連鎖を起こす。

 

 

大切なのは、自分を大切にしながら先生という「役割」を果たすこと。

 

「教師」はアイデンティティではなくて、役割だから、自分が別の自分になる必要なんてない。その2つは両立する。

 

そもそも、どこまでいっても自分は自分だ。

そして自分の自然体で持っている信念を大切にすることができたら。おのずと言動には一貫性が出てくる。そういう正直さは人を惹きつける。

 

何より、自分でいるからこそ伝わるメッセージがある。

 

役割だけをこなすのなら、他の誰でもよかったことになる。

その人が先生をやる意味なんてない。

 

こういう仕事こそがAIに取って代わられること。

 

人間性や感性がないことは、最終的に代替可能な労働力にカウントされる。

つまるところ、感性を活用して成果を出すこそが究極の個別具体性になる。

 

 

そう。

 

 

なので俺自身も、「代表として」とか考え出した時点で負けている。半分合ってるけど、半分違う。

 

頭ではわかっていたのだけど、「周りからの目」みたいなものの力って、数が増えた分だけ強く働く。これが大変。

 

自分では「自分らしくやろう」と思っていても周囲は「いやいや何言ってんだよ」という。この音量が大きければ大きいほどストレスは大きくなる。そして「あ、そうなのかな」と思い始めてどんどんぶれていく。

 

こういうことが大なり小なり、いろんなところで起こっているんだろうと思う。

 

そしてその妨害電波はチャレンジが大きくなれば比例して大きくなる。

 

 

そういうときに大切なのは、「それでも自分らしさを信じる」ということ。

 

そしてそれを信じてくれる人を見つけるということなんだと思う。

 

俺はそういう人のおかげで本当に何度も救われた。

 

まだまだだけど、もう負けないぞと思えるところまで、やっときた。

 

そして、俺も誰かのらしさを信じきれる人でいたいと思う。それをエンパワーして、人間らしく生きれる人を増やしたい。

 

リーダーシップは、技術じゃなくてあり方で、それを支えるのは「信じる」というパワーなのだと思う。

 

 

おわり

 

 

自分自身であることが一番幸せ

そんなこと最初からわかっている。

生まれた時はそんなことも考えずにみんなその状態で生きていて

知らず知らずのうちに、

「こっちのほうがいいよ」

「それはやめてね」

「そっちじゃないよ」

「こうしなよ、うまくいくよ」

色んな外からの力が時に変に働いて、自分の意思が歪んでいく。

判断や物事をどんな風に感じるか、最後は人は感覚に頼っている。

そこを修正されてしまうと、
(そしてときに脅されてしまったら)

自分でいること、自分の感覚をしまうようになってしまう。

自分自身でいることが一番価値があるよ、
あなたの感覚はとても面白い!

そういう向き合い方を、どれだけされてこれてるだろうか。

挙句に「自分の意見を持てない若者」なんて

勘弁してほしいよなぁ。

もう一度ここから、自分の言葉で書く

 

文章を書くっていうのは、俺にとって結構いろんな意味があって、

というか表現全般だけど

リアルな自分をそこに出すっていうことがとても大切。

 

うまく、上手に、わかりやすく

そんなものには価値がない

少なくとも自分にとっては。

 

昔毎日ブログを書いていたときがあったけど、「何か書こう」とするんじゃなくて、そのときの自分を言葉にするような感覚。

そしてそのときそのときの自分を表現できるっていうのは、とても贅沢なことです。

それを繰り返して、自分を確認して、また前に進む。

そういうことが自分を濃くするのだと思う。

 

昔同じようなことを書いたけど、なんとなく、自分を表現するのが申し訳なくなるようなときがある。「そんなことしてる場合じゃないだろう」と周りから言われそうなことが、俺なんかはここ1〜2年そんなことばっかりで、そんなんだからどんどん自分が死んでいっちゃう。

 

だめだ、それじゃ。

 

発想すべきは逆で、「そんなこと言ってないでやることやってからにしろ」をやめて「そんなときだから自分にたち返ろう」ってしないと、引き気味姿勢の負け試合ばっかりになってしまう。

 

そんなときだから、 そして どんなときでも

 

人生1回限りがあるから、自分でいる時間をたくさん持たないと、

生きてる意味ないよね。

 

なおや

 

「もし元楽天社員が学校の先生だったら」は終了することになりました。

ご無沙汰してます。

このたび、ブログ「もし元楽天社員が学校の先生だったら」は終了することになりました。

理由はただ一つ、もうこれ以上そのアイデンティティで発信したいことが無くなったからです。

このブログを始めて約1年半、アメブロ時代も入れると2年近くブログを書き続けていました。ブログを書き始めた当初は、「あんまり見えない教育現場の様子を自分の体験した自分の言葉で残し続けていこう」という思いで始めました。

もっと正直に言えば「民間経験者が学校現場をどう見るかなんて、なかなか切り口おもしろいだろう」という浅はかな下心がありました。

そして狙った通り、ブログはたくさんの人にシェアをして頂き、ついに先日の記事では単体で3万PVを越えるところまでいきました。そしてそういったことを繰り返すごとに、何かにがんじがらめになり、ウケそうなことを書こうとしては自分がイヤになる、そんなことを繰り返すことになりました。自分が設定したアイデンティティに合わせにいくことに必至だったわけです。

この2年弱の現場経験は私のとるに足らない教育観を根底からひっくり返す経験でした。それは、何がどう変わった、という言葉では表せないものです。故に、当初のような意図で何かを発信したり、まして何かを代弁することなど、出来るわけがないと感じるようになっていました。

新しいことにチャレンジして、とことんやってみたら、絶対自分が見えてくるんだと思うんです。それまで頭の中で予測しているだけのことが現実になって、そこで初めて自分の心とピントが合うようになる。

それは、なんかその仕事がわかったとか、真理がわかったとか、そういうことじゃなくて、やっぱり「自分のことがわかった」ということだと思うんです。

世間や社会をなんて語れない。仕事や業界、そしてまして人は括れない。

世の中の見え方は一人一人違うはずです。だったら共有はすべきことはあっても、強要すべきことなんて1つもない。でも自分の話はいくらでも出来る。思いがあるし、リアルがある。

その言葉の行き交いにこそ揺さぶられるものがあるんじゃないかと思うんです。

であればこれ以上「元民間企業」であること「教員」であることは重要なことではないと感じました。

全て一回リセットして、「自分として」思ったこと考えていることを発信していくという原点にきちんと立ち返りたいと思っています。

別にもう教育のことは書きませんから、ということではないんですが、等身大の自分の言葉として自分の体験を言葉にするという意図も込めて、ブログ名は変更し「もし元楽天社員が学校の先生だったら」はここで終了することにします。

ページにたくさんの方からいいねを頂いていたところで、期待はずれな部分もあるかもしれないのですが身勝手で申し訳ありません。より正直な発信ができるように努めます。

よければこれからも宜しくお願い致します。

教師を始めて一週間で「もうここですることは何もない」と思った話。

今だから言えることだけど、教師を始めて一週間くらいで、「ああもうここでしたいことは何もないな」と思った。

ずっと抱いていた「教育をもっと良くしたい」という思いの先には、「もっと日々を、そして人生をワクワクして過ごす大人が増えたら良いのに」という世間を憂うような思いがあった。 そしてどうしてそうなっちゃうんだろうと考えたときに、「価値観を形成していく」というところにポイントがあると判断した。モノの見方で人生は変わる。

自分が熱中出来ることを見つけ、誰かの為を思って生きていくことは素晴らしい。そう感じてもらえることが大切だと思った。自分が子ども達と出会ったとき一番に伝えたいことはそれだった。

自分が企業に勤めてからの3年間、どんなことがより良い人生を送るためのエッセンスなんだろう?ということをずっと考えていました。

そしてたくさんの人や出来事と出会って出た一つの結論は、幸せな人生を送っている人、もっと言えば「成功」しているような人は、皆自分がしていることにワクワク感を持っていた。我慢してイヤイヤそれをやってる人なんていない。表現のタイプはそれぞれだけど、自分のしていることに情熱があったり、志があったりして、何よりその状況を楽しんでいた。

そして類は友を呼ぶわけで、そんな人の周りには、そんな人が集まっている。そこにまた相乗効果が生まれる。そんなライフスタイルを送っているから、貢献意識が非常に高い。これもまた例外無く。

そして教室を見てみる。

彼らと教室で会った瞬間、「あぁ変わる必要があるのは子どもではなく、大人なのね。」というある種の結論みたいなものが出てしまった。

何とも当たり前のことだけども、子どもは日々ワクワクしている。日常から夢中になるものをいくらでも探してくる。「やりたいことがないんです」なんて憂鬱な大人のような表情をしてる子はそうそういない。

いつ何時も、何かしら思いついて子どもは楽しもうとしている。自由な時間とスペースが与えられれば、どんどん新しいことを勝手に生み出していく。ダンボールを使って、音楽でクイズを考えて、写真を撮ってポスターを作って。とにかく夢中で取り組む。大人の都合なんて無視して、ひたすらに没頭している。

そして「誰かの役に立ちたい」という気持ちも非常に強い。お手伝いを頼めばそれを取り合ってケンカをするくらい。ありがとう、と声をかけるとうれしがっていくらでも掃除をしてくれる。

そんな子ども達に、これ以上何を伝える必要があるだろうか?

彼らはそのままいけばいい。少なくとも自分はそう思っている。自分がしていることに夢中になって技能を磨き、誰かに貢献する喜びを覚える。そんな人間であってほしいと思う。

でも実際はそのままいけない現状がある。大人に近づくに連れてどんどんその姿勢が変わっていく。やりたいことがなくなったり、誰かのために何かをする喜びが薄れていったりする。これは、大人が魅せている世界があまりにも魅力的じゃないからではないのか。

さんざ教育を変えたいと言ってきたけれど、「じゃあそれを語るお前の人生はどうなんだ」ともう一度自分に問う必要がある。教育を語ることは人生を語ることじゃないのか。子どもは想像以上に大人をよく見ている。語りかける言葉より日々過ごす姿勢が彼らに及ぼす影響の方がはるかに大きい。

一節で、「教育の根幹は立派な大人を育てることだ」と文科省の人が言っていたけど、そうであるならば子どもが「大人になるの楽しみだな」と思えるような顔つきを、私たちがしてるのかともう一度問うべきなんじゃないか。考えるべきところは、その1点に尽きるんじゃないかと思うわけです。

教育改革に声を上げるよりも先に、責任をとらなければいけない範囲があるんじゃないか。

子どもに押し付けたり、期待で彼らを押しつぶす前に。その分自分の人生にもっと責任を持つべきだった。

世の中を変えるっていうのは、自分を変えていくってことじゃあないのか。

今から、此処から、我から。

おしまい

 

2014/12/13 

教育を考えるというのは理想の未来を考えるということ

 

どんな教育が必要かって考えてみる。

 

教育の結果というのは、未来の社会であったり、未来の世の中なわけで

理想の教育を考えるということは、どんな未来を作りたいか、ってことを考えることだと思う。

 

もちろん時代の変化を予測することも大切かもしれない。でも俺が常々思うのは、この子たちは適応するんじゃなくて、創造していくんじゃないのかな、ということ。

 

「どう適応するか?」という問いは最初から色んな限定を孕んでいる。

もちろん前提になっている状態を作る必要はある。でも適応することが目的じゃなくて、あくまでこんな世界になったらハッピーだな、と思うものをみんなで作っていくことが目的なんじゃないかと思う。

適応するのでなく、創り出す。「創り出せるんだ」という気概とそのチカラを身につけることが必要なんじゃないかな。ビジョンに目を向ける。

 

そして、それは大人が先に見せてあげるのが一番早いのだと思う。俺たちがまずビジョンからスタートする。

子どもが大人を見て真似をするという力たるや、半端じゃないものがある。

 

俺はじゃあどんな未来をつくりたいだろ・・・

 

もっと生産的(形式的な無駄がない)で

みんなが繋がっていて

有機的なコミュニケーションが起きて

アートな部分がたくさん発揮されて

没頭してワクワクして仕事(作品)が作られていって

それぞれがそれぞれの営みに感動するような

互いに素直に感情を表現できるような

自分は、自分でいれて幸せだなあと思えるような

あなたがいてくれてよかったなあと、たくさんの人に対して思えるような

 

そんな世の中にしたいな。

 

「そんな世の中にするには、どうしたらいいかな?」

「そしてあなたは、どんな世界だったらいいと思う?」

 

そういうところから始めたらいいんかな。

 

 

すっごい秘訣に気づいてしまった。。

 

 

すっごい秘訣に気づいてしまった。。

 

俺は常々、リアルでないとおもしろくないよなぁというようなことを思っていて、実際そういうことを人にもよく話す。

 

俺は歌うのが好きなんだけど、この前歌ってるときに、「あれ?そもそもこれこそ、もっとリアルにやらないと」と思った。表現の類は特にそういうものの差が顕著に出る。(岡本太郎美術感とかリアルの極み

なんか嘘くさいな〜と自分で感じる時は、実際に自分とそれ(表現)が繋がっていない。そういう違和感って考えたことはなくとも誰もが一度は感じたことがあると思う。

(話は戻って)

そして、もっとリアルに歌ってみようと思った。 人に偉そうに言ってるくらいだから自分がやらないと話にならんなと思って。

でも、さて「リアルにやる」ってどうやるんだろうな?と思った。

感情を表現する?

感じてみる?

今ここにいてみる?

リアルさってなんやねんと思った。 いつも言ってるくせに。

 

そこでそうこう試しているうちに気づいたわけだ。

歌=俺

っていうのが一番リアルなんじゃないかと。

つまりどう歌うか、どんな自分で歌うかじゃなくて、歌に「自分を込める」という行為をする。

これに気づいた瞬間とてもびっくらぽんだった。

 

俺は特に話したり書いたり歌ったり、言葉を介した表現がとても好きだし、本当に長年こだわってやってきているので実際かなり得意だと思っている。

なのでうまくいったこともいかなかったことも多々あって、その違いは一体なんだろう?ということを考え続けてきた。 うまくいくとき、というのは「伝わってるな」ということがリアルタイムでわかる。

おもしろいことに、書いているときもリアルタイムでわかる。「こりゃ、バズるな」と思う。(そして実際バズる)そういうときのことを俺は「鮮度を保つ」という表現で捉えていた。その瞬間の自分の感じをそこに込められたな、と思うときに、それは人前に出す以前にもう「伝わるもの」になっているのがわかる。

真空パックにしたら鮮度が保たれるな、と食べる前からわかるのと同じ。

 

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話しているときも、「なーんか今上ずってるな」ということに最近は出来るだけ早く気づきたいと思っている。

俺なんかもうペラペラ上手に話せてしまうものだから、よく自分自身を置き去りにしてしまう。上手に言葉だけが並べられていくけど、そこには何もない。そんなときの自分の話は懺悔をこえて死にたくなるらいおもしろくない。でもそこに自分があるときは、言葉足らずとも伝わる。

 

そんでもって、それに対する今までの俺の解決策は「自分でいる」ということだった。 大きく見せたり卑下したりせず、等身大でいようと思うことでそれはある程度防げると思っていた。

同時にそれでもまだまだ足りないなと思っていた。 今ならわかるんだけど、それってまだ「自分」にこだわってるからなんだ。

 

そうじゃなくて、自分を忘れて表現そのものと一体になる。っていうことが真骨頂なんだと思った。

表現=自分という状態。文字=自分。言葉=自分。歌=自分。 それがそのそれ。

つまり、俺は俺らしく歌うのではなく、「歌という自分」そのものを目の前に人に届けるというわけです。

こりゃーたまげた!世紀の大発見!

 

「俺そのもの」が伝われば、相手と繋がらないわけがない。だって俺が100%直航便で相手のもとに行くわけだから、それで全てが完結しているじゃないか。  そういう感覚で文章を書けばいいし、 そういう感覚で人前で話すことができたら、もっと多くの人とリアルに繋がれる。

なんてこったです。

 

ちなみに、この行為と自分が一体になることを心理学ではフロー状態といって、超集中状態で疲れも感じず、ずば抜けた成果が出ると言われている。

禅でたどり着くのもこの境地で、黒子のバスケ的にいうとゾーンに入る、ということです。

そういうことが大好きで昔からたくさん文献を読み漁ってきたのだけど、どんどん体感出来ることが増えてきた。

 

でもわかった瞬間とできなくなる。わかった通りにやろうとするから。

それはリアルじゃない。

 

探究はつづくのでした。